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東京千秋楽公演観劇記:劇団四季「ジーザス・クライスト=スーパースター(JCS) ジャポネスク・バージョン」 [観劇の記録]

本日、四季劇場[秋]でジーザス・クライスト=スーパースター(JCS)ジャポネスクバージョンの東京千秋楽公演を観劇してきた。


おなじみの秋劇場。とはいえ、前回同じJCSを見切れのC席で見たのが、6月初旬。かるくご無沙汰なのだ。何度も繰り返されているこの演目だが、楽日は多少雰囲気も違う?

率直に、今日のJCSは良かった。自分の中ではジャポネスクバージョンで一番良かったのではないかとさえ、思う。そして、そういう機会にはやはり思うものだ。つくづくと。やっぱり自分は好きだなぁJCS。。。

思い起こせば、この作品を初めてみたのは、映画だった。

ジーザス・クライスト・スーパースター

中学一年の時、友人たちと連れ立って、とある名画座で「サウンド・オブ・ミュージック」との2本立てでみたのが最初。以降、自分はブロードウェーのハリウッド版といえるようなミュージカル映画を見まくることになる。その意味で この作品は自分のミュージカル史の(ひとつの)原点だ。劇団四季の舞台はそれより前、日生劇場でこどもミュージカルを見ていたので、これも一方の原点ではあるが、ふたつの流れがひとつになり、劇団四季版JCSを見るのは遥か後年のことになる。

そんなわけで、自分にとってのJCSは映画に刷り込まれている。なにより印象的なのは、ユダのカール・アンダーソンのうるうるとした眼。その眼が痛烈に訴える「ジーザスへの思い」。ある時はせつなく求め、ある時は嫉妬をぶつけ、ある時は後悔に涙をためる、言葉以上に多くを語るその眼の背景にあるのが「ジーザスへの愛」。この作品の核である。それは、極めて人間的な愛であり、もしかしたら「恋」なのかもしれない。神なる愛=アガペーとは対極のその愛は、対極ゆえに思い人たるジーザスに受け入れられることはなく、思いに突き動かされるその行動は、人間ジーザスを抹殺する皮肉な結末をもたらす。対極の愛を司る神の手の内ですべては仕組まれ、愛の強さゆえにユダは永遠の裏切り者の役を担うことになる。なんて悲しいユダ。なんて悲しい運命。

これが自分のJCSの原点なのだ。だから、自分にとってこの演目を評価するポイントは、、、、


ジーザスへのユダの愛がどれだけ伝わるか、どのように伝わるか


これに尽きる。

前回6月の観劇もそうだったが、劇団四季のJCSでは、自分にとってのユダは芝清道。これがスタンダードとなっている。声楽家には望むべきもない強烈なシャウト、何より独自の芝ワールドを作る上げるその歌声は圧倒的だ。マリア以下、脇があれこれ変わって、かなりがっかりのキャストの時も、芝さまのおかげで基本満足という経験が何度もある。ただ、彼の魅力は歌声だけではないようだ。

近年、何度か吉原ユダで見たことがあるが、声量だけは負けないものの、はっきり言って作品が台無しになっていた。大事なこのユダの役において、芝清道は演技の面でも相当な存在感をもっていたことを痛感させれられた。確かに芝ユダは素晴らしい。ところで、自分的肝である「ジーザスへの愛」についてはどうだろう?

映画とは異なるが、芝ユダにはひとつの「ジーザスへの愛」がある。彼は悶絶するし、叫ぶ。
強烈な歌声によって表現されるそのパッションは、まちがいなく恋するものの情熱を思わせる。最後の晩餐で使途たちが呑気に歌う声を背に、時が止まったように見つめあうシーンでは思わず自分は涙がでる。たぶん、その真っ直ぐで攻撃的な感情を受け止める穏やかなジーザスがそこに在るからだ。

だが、それはひとつの恋愛の形に過ぎない。芝ユダの場合、「ジーザスへの愛」よりも「自己愛」が勝っている。芝清道はナルシストだ。「俺は芝」だ「自分、自分」だ。どんな役を演じても芝清道だ。チェしかり、タガーしかり、マンカスだってみんなのリーダーじゃない、「俺」だ。だから、彼のメッセージはまず「なぜ、わかってくれないんだ!ジーザス」だ。自分を省みるのは何かを失ってから、「やっちまった」後なのだ。

芝ユダがスタンダードとなって久しい自分には、その「恋愛の形」も当たり前のことに思えていた。だが、キャストが変わって、それも一変。

キャスト表

金森勝ことキムスンラの演じるユダは一味違った。歌を芝清道と比較すれば、期待する部分でのシャウトがなかったり、オクターブ低かったり、これでもか!の乗りのパワーがなかったりで不完全燃焼の面は否めない。だが、それを補って余りある芝居の粘度がある。まあ、その役への入り方、なりきり方は、やり過ぎとも思うくらい。アングラ劇団か?!と紛うばかり。しかし、おかげで もうひとつの「ジーザスへの愛」の形を見せてもらった。

スンラ=ユダに自分が見たのは「自責」「呵責」。嫉妬でマリアを責めれば、返すジーザスの言葉にグサっとくる。司祭たちにジーザスを売れば、すでに葛藤で悶絶している。泣きどころの最後の晩餐に至っては、ジーザスのまなざしの前に、もはやいたたまれない悲痛な魂。ついに追い詰められジーザスを責めると、今度はジーザスもユダを責める。ユダの「痛み」に訴えるジーザスを見るのは初めてだ。もちろん、脚本は一定だ。そう見えるということだ。

今日の最後の晩餐は「修羅場」に見えた。芝:柳瀬ではみたことがない。思いっきり自分本位のユダと、すべてを悟ったジーザスの厳かなシーン。静かに涙していたのが、最後の晩餐だったのに。スンラ=ユダはそれを違うものにしてしまった。ユダだけではない。柳瀬ジーザスもすっかり違って見えた。柳瀬の取り乱したジーザスを見たのは初めて(と思える)。そして、今日のゲッセマネは格別だった。心なしか、興奮した柳瀬ジーザスを見たようだった。熱かった。。。良かった。。。

芝ユダとスンラ=ユダ、優劣ではない。違う形で「ジーザスへの愛」を伝えている と思う。その意味で今日のスンラ=ユダは満足だ。

その他、キャストについて。

  • 柳瀬ジーザス:今やこの人あってのJCS。ある意味、安心して観ていられる。しかし、今回は既述のとおり、ちょっと違うジーザスを見た。最後の晩餐のスンラ=ユダとのバトルの余韻を引きずってか、熱いゲッセマネを聞いた。たぶん、初めてのことだ。今日のゲッセマネは良かった。 
     
  • 高木マリア:高木さんは以前にクリス役を見て、好印象をもっていた。好演によって大きなトライアングルを描いてくれた。
    参照>>「登場!石丸ラウル」
    だが、マリアとしては違った。いや、これまでの四季のマリア全て自分としては違う。自分のマリアの原型は映画のイボンヌ・エリマン。「せつない叫び」が聞こえてこないとダメだ。高木マリアはその表情や仕草で「せつなさ」は表現していたが、それは叫びにはなっていない。ちょっと浮ついたビブラートのファルセットでスーーッと歌われても、それは自分のマリアじゃない。きれいな歌を聴きたいわけじゃない。少なくとも自分は。 
     
  • 下村ヘロデ:ジャポネスクのヘロデは下さんしかいない!願わくば、雷さんでなく助六で行ってほしかった。。。
     
  • 村ピラト:演技しない人の印象があるが、歌の表現力はさすが抜群。磔宣告の絶唱はど迫力。ベテランに安心感。
  • 司祭たち:あまり好みではない。カヤパは高井さんが良いし、明戸さんもアンナスのイメージとは違う。音域とか。
     
  • アンサンブル:民衆は隠れた主役。愚かさ丸出しで地を這うような、どろどろの演技をしなくちゃならない。知らない役者さんばかりだが、それはよい。あまりに西村麗子ばかり目に付いてしまって、その他個別のチェックにいたらなかった(^^;
今日の観劇といえば、ユダのキャスト変わりのほか、「千秋楽」ということもあった。確かに先日6月初旬の時と違い、カーテンコールの繰り返し、最後は客席総立ちになったこと、などは違っていた。とはいえ、特別な感覚はなかった。ジーザスの柳瀬はいつになく気合が感じられたが(^^;
初見のスンラ=ユダは新たな発見をもたらした。しかし、これはジャポネスクバージョン。奇抜な美術と演出の枠にはめられて楽だったともいえる。これからエルサレムバージョン、その真価が問われることになるだろう。
自分はこの演目がかなり好きだ。エルサレムバージョンも同じ視点で見てみたいと思う。今日、観劇して、また、そう思った。。。


いろんなblogでの「スンラ=ユダ」の評判;

いろんなblogでの「JCSジャポ東京千秋楽」の評判(一部追記);

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こんばんは
何と同日に観劇されていたとは!ご挨拶もせずに申し訳ございません。
千秋楽良かったですよねー
かるきんさんはジーザスに思い入れを持たれているようで、とても参考になりました。
by (2007-07-22 02:33) 

かるきん

>jurun さん
こちらこそ、失礼しました。同日観劇らしきことはblog拝見してわかっていましたが、ご挨拶のしようもなくm(__)m
結構、題材がいろんな解釈を許すものなので、何度もみていると思いいれもついつい深くなり。。。。ちょっと引けちゃいますよね(^^;
ともあれ、千秋楽はよかったです。自分的には結構満足(*^-^*)
by かるきん (2007-07-22 18:11) 

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